リウマチ相談室のブログ~手のひら先生の独り言~

手のひら先生が鍼治療を通して思う、つれづれなるよしなしごとをお話します

恩師との出会い その1

「先生は韓国で高麗手指鍼を習われたのですか?」と聞かれることがあります。「いいえ、日本にいらっしゃった金成萬 キン・ソンマン先生に習ったんですよ」と答えます。先生はその当時、テレビ東京の特集で「代替医療によるがん治療」特集で紹介され、患者が押し寄せて来ていた翌年で、少々お客さんは減少していましたが、まだがん患者も多く来られていた時でした。患者が減ってきてしまったのは国民性の違いを先生が理解せず、宣伝を怠ったのが原因で起こっていた現象です。後で分かったのですが、韓国では良いと思う治療があると、親戚友人誰からかまわず口コミをするので、たとえ無断で転居しても患者が転居先を探し出して追いかけてくるらしいです。日本人は同じような顔をしているし、韓国人と同じと考えたのか、四谷の住まいから恵比寿の駅前、一等地にあるマンションにお知らせもなく移られていました。私はそこで講義を受けました。
最初に伺った時驚いたのは、転居祝いとして大きな柱時計がでんと座っていたことでした。そこには時の野党の大物政治家、今も活躍されていますが、お二人の名前が書かれていました。お一人は心臓に今も持病を抱えているようですが、そのちょっと前フランスに治療に行ったとか、行方が分からなくなったとか騒がれたときがありました。そうか先生が治療をされていたんだとこの時理解しました。講義中に先生は、政治家の患者さんが何人かいらっしゃるようなことは、おっしゃっていました。
先生がなぜ日本に来られたか話されたことがありました。韓国は今でも兵役があります。兵隊としてベトナム戦争に従軍されたそうです。そこでひどい腰痛になり、帰国しても大学で勉強することが出来なかったそうです。全国に治療家を尋ね、最後に出会い完治したのが高麗手指鍼でした。それから興味を持たれ自身研究を重ねた結果、患者さんが押し寄せるように来たそうです。しかし韓国では日本の鍼灸師制度のように、専門学校夜間部3年通えば資格が取れる、そのような簡単な仕組みではないのです。大学まで行って漢方医という資格を取らないと、鍼を打つことが出来ないのです。そのころ家族もいて、改めて入りなおす余裕はなかったそうです。
 評判を呼びなおかつ高麗手指鍼学会でも論文を提出し、名前が知られるようになっていました。しかし評判が上がれば、無資格診療で警察の取り締まりも厳しくなります。高麗手指鍼の発展普及の経過はまたの機会に譲りますが、先生も将来の不安があったのでしょう。そこへひょっこり1人の有名な日本人が治療に訪れ、先生の運命も変わっていくのです。
その方はお年を召していますが、今もプロスポーツで活躍されていて、知る人ぞ知る超有名人です。その方も心臓疾患があったそうで、当時のダッグアウトの映像では、ベンチにだらしない形で座っている姿が見られます。苦しかったのでしょうか。手分けして良い先生はいないかと探していたところ、釜山にいると聞いて通って来ていたそうです。しかしいかに近いとは言え、早々忙しい身通えなくなって来ました。そこで「先生全部私が面倒を見るから、日本にいらっしゃいませんか?」と言う申し出があり、韓国の鍼灸事情もあり、先生は来日したと言うことでした。
先生がセミナーを持たれて、私は第7期生だったと思います。おそらくそれまで、日本人でこの高麗手指鍼を正式に教えられる方は、誰一人としていなかったはずです。では先生の下でも何故広まっていかなかったのか。1期あたり10名前後の受講生として、8期までありましたから合計80名程度は手指鍼を学んでいるはずです。でも広まっていない。この原因がどこにあるのか上げてみると、先生が教える気がなかった。正確には一人前に育てる気がなかったことにもあります。これは日本人の講師にも言えますが、情熱がない、教えるのはほんの少しだけで、すべて教えたら自分の生活が脅かされると思っている。一方生徒も基礎は教えてもらったんだから、そこから発展させるだけの工夫も知恵もなかった、と言うことに尽きるのではないでしょうか。
セミナーが始まって2回目ぐらいに、生徒の一人が「先生はがん治療で有名ですが、僕らも将来治療をしたいので教えてもらいたいのですが」と発言したことがありました。私は心の中で「まずいなー、まず失礼だよまだ知り合ったばかりでセミナーも2回目、先生に対する言葉じゃないな」と発しました。先生は「そんなの教えたら飯の食い上げよー」と言いました。私は「さすが外人、キビシーなー」と思いました。しかし日本人には受け入れない言葉ですが、文化の違いでそれはそれで彼への回答としては良かったのではなかったでしょうか。彼はそれでめげていましたが。後何回目かの時、先生も少々悪いと思ったのか「わしが癌を治せるのは、一本一本刺す鍼に気を込めているからだ」とおっしゃっていました。当時は「そんなわけ分からんこと言って」と思い、ニードルキーパーなどの発明にいたるのですが、今はその言葉が正しいと思っています。
先生と最後にお会いしたのは第15回韓日大会の前でした。一度韓国に引き上げた後、再起を期して日本に来られる前、不幸にも自動車事故に遭われてしまいました。東大病院でも検査したが原因が分からないといって、ふらつく身体を杖で支えていました。日を置かず先生をお見舞いしました。先生は大変喜こんでくれました。その時は日頃考えていた、手指鍼理論の根本に関する問題を、先生にぶつけてみました。「ところで長谷川はどのように考えているのか」と聞かれ、温めていた仮説を披露すると先生もうなずかれ、意見を述べてくれくれました。さすが先生と呼ばれるだけのことはあると、この世界に入って初めて恩師と呼べる方とで出会った思いがいたしました。
その先生もその後は音信不通で、調査をしたのですが、経過からおそらくなくなってしまっているのではないかと思います。今私は先生とは違った方法で、癌、リウマチ、糖尿病、その他難病といわれるものを治療して成果を上げています。その礎を築いてくれたのは、恩師金成萬先生でした。韓国ではまだリウマチも糖尿病も難しい病気の部類に入っていますが、私が独自の形でこの鍼を発展させ、治療可能な病気として扱えるのもひとえにこの先生のおかげです。
来年からは私も先生のようにセミナーを持ち、専門家を相手にこの高麗手指鍼を広めて行こうと考えています。
参加希望の方は、是非要項をお読みの上ご連絡ください。
「手のひら先生のリウマチ相談室」tenohiras.com