リウマチ相談室のブログ~手のひら先生の独り言~

手のひら先生が鍼治療を通して思う、つれづれなるよしなしごとをお話します

ブラタモリ 新宿歌舞伎町

 2週にわたりブラタモリで新宿歌舞伎町周辺を探索していました。

歌舞伎町と聞いて湧くイメージは、「怖い・汚い・危ない」ではなかったでしょうか。

いまはかの浄化作戦でキレイになったようですね。

TBSラジオ「菊池成功キクチナリヨシの粋な夜電波」でも、最近の新宿歌舞伎町はおとなしくなったことを知りました。

東京の中心みたいに栄えている新宿ですが、ほんの数十年前は本当に田舎だったようです。

50年前ならまだ京王線が地上を走っていたことを鮮明に思い出せます。

文化服装学園の丸い建物の横を電車は走っていて、座席に乗って外をよく見たものです。

我が母校東洋鍼灸専門学校は歌舞伎町のハズレにありました。今は新大久保に移転していますが。

その昔はもしかすると沼だったのかもしれないところに立っていました。

戦前は花小金井の拓大附属高校に鍼灸資格が取得できる高校としてありました。

戦後新制度になって当時歌舞伎町にあった、初代校長柳谷素霊の自宅を学校にしたのです。

そこに通ったのですが、おそらく当時としては白亜の4階建ての家は、付近を圧倒する建物だったと思われます。

当時から通われていた先生方は、そこから新宿駅まではすすきの原っぱを、それも人が踏みつけて作られた道を歩かれたそうです。

最初鍼灸学校を探すのに、四ツ谷や渋谷を回ったのですが、仕事を終わって通うのには、新宿の東洋鍼灸専門学校しかありませんでした。

失敗であり幸運であったのは、下見した2回が昼間であったことです。

初日夜に歌舞伎町に向かうと、ネオンキラキラ輝く街並みとラブホテルのネオンを見て、ここに3年間も通うのかと暗澹たる気持ちになったことを思い出します。

良かったのは、この学校が伝統ある柳谷素霊の創設した学校であり、薫陶を受けられた先生方の授業で学べたことです。

「気」なんて縁のない世界から入学した私は、井上先生の「あんまも鍼も同じことをやっている。気で直しているんだ。」という言葉を聞いて、今の私があると考えているのです。

おそらく他の学校に行っていたら、資格を取得しただけで終わっていたことでしょう。

バブルの末期でしたので、まだ歌舞伎町は活気がありました。

中国、南米、イランなどの中東からも多くの外人が歌舞伎町にあふれかえっていました。

大沢在昌の小説「新宿鮫」の世界でした。

事実後で読んだ週刊文春の覆面調査員のレポートでは、イラン人や中国人の抗争がいくつも起こっていた時代でした。

よくまあ3年もあんなところに通い続けられたと思います。

道には大きなネズミがうろちょろしているし、11時過ぎに授業を終えて帰る時には、酔っ払いおやじとホステスがラブホテルに入るところを見たりしました。

学校を出るとホステスがタクシーを降りてすれ違いました。

友人が「あれ昼間タモリの番組に出ていたニューハーフじゃない?」

「そうだそうだ。喉仏あったもんな。」

俺たちこんな時間まで何してるんだ?そんなことを思いつつ通った歌舞伎町の思い出です。

でもさすがNHK、吉原の時もそうでしたが、裏の世界は写しませんね。さすが!

でもそれも日本であり、ぶらぶらするところではない歌舞伎町世界なのではないでしょうかねェー。

40歳過ぎて3年も働きながら通ったのは、おそらく何か憑いていたのかも?