リウマチ相談室のブログ~手のひら先生の独り言~

手のひら先生が鍼治療を通して思う、つれづれなるよしなしごとをお話します

鍼灸師はつらいよ 4

40年以上前は、鍼灸師になってリウマチや糖尿病患者さんを診るなんて、夢にも思っていませんでした。漠然と大学教授とかには憧れていましたけれど。
私の幸運は高麗手指鍼に出会ったことでした。習ってみると一番肝心なこと、ツボの位置が決まっていて簡単に分かることでした。手のひらですから3ミリも位置がずれたら効果は出ません。身体の場合はどのくらいの許容度があるのでしょうか。素人の方は鍼の太さがどのくらいあるかご存じないと思います。基準の太さが3番と言う番号が付いていて、0.2ミリです。例えば合谷 ゴウコクというツボがあります。顔の疾患に良く用いられるところです。昔は薬がなかったので、面疔という吹き出物でなくなりました。これに良く効く特効穴として知られているツボです。これは親指と薬指の間で薬指に近いところにとる。こう本には記載されていいるのですが、鍼をもって正確に刺そうと思うと、太平洋で難破した人を探すぐらい難しい。そう最初は思いました。先生が此処だよと強く押してくれて、初めて「あっ、ツボはそうとるんだ」と分かったのです。ある本では柳谷素霊師のつけた印のところに、お灸をするように指示された。しかし位置がずれているようなので、先生に言ったところ「良くみろ、その患者は背骨が曲がっているので、普通に位置取りするよりずれているんだ」と怒られたそうです。
ツボと言うのは「少しへこんでいて、微妙に湿り気がある」と教えてもらったことがありますが、これもすべてに当てはまるわけでなく、相当経験を積まなければ会得できないと思いました。逐次ツボの変化を教えてもらわなければ、一人前にはなれないと思うのです。古典には「ツボは動く」とも書いてあり、これは今は納得できますが、学生がこれを読んだら、頭の中は真っ白になって混乱するだけです。
東洋医学はあいまいで、個人差が大きい。確かにそうです。しかし明治初期以前は違っていたはずです。明治に出来た医師法で、それまでいた漢方医6万人が0人となってしまったのです。なぜかと言うと、日本はこれから富国強兵を図り列強諸国と戦う準備をしなくてはならないからです。漢方薬を煎じるより、負傷したりした兵士に包帯を巻いて治療する、西洋医師を大量かつ早急に作る必要があったのです。東洋医学では一人前になるには10年かかります。10年*365日*6万人=2億1千9百万時間 と言う修行時間が一瞬のうちに失われてしまったのです。江戸時代の日本の武士の文化程度は、地方も都市もまったく差はありませんでした。それは必須とされる書物、例えば四書五経というように、基本図書が定まっていたからです。漢方は今でも傷寒論など基本図書は変わっていません。それを自分で解釈し、先生から悪いところ理解できないところを指摘して解説してもらう。そのグループでは、同じ知識技術を共有出来るわけです。一定以上のレベルは維持できていたと思われます。この時間が今の鍼灸師に欠けているシステムと時間数なのです。漢方専門医がいまだにこのシステムを維持しているのに対し、鍼灸師は大きな規模、広い範囲で行われてはいない。それが一般の信頼を得られるレベルを維持できない根源と考えるのです。
2、3年前世界規模でツボを決めた。いくつかは韓国と中国と日本かな?でもめてなかなか決まらなかったそうですが、そんなの重要なことか?と私は思っています。確かに論文発表をしたい人にとっては、ツボの名前は大事じゃないでしょうか。同じの名前のツボが上下左右位置が違っていたら、それは共通認識をもてないでしょう。でも大体でいいんです。治療家にとってはですが。
西洋哲学を押し付けて科学化!科学化!と叫んでも、東洋医学と言うものは東洋哲学に基づいて行われているわけで、それに合わせてもまったく意味はないのです。もし腰痛の患者が10人いたとします。Aと言う鍼灸師にかかったら6人治った、Bと言う鍼灸師にかかったら7人治った。60パーセントと70パーセントの治癒率と彼らの技術を数字で比較して、それが科学的な計算といえるかといえます。それが鍼灸の科学化でしょうか。まずAの鍼灸師とBの鍼灸師の取ったつぼは同じだったかと言うことです。次に証と言いますが、やはりAとBは同じだったでしょうか。AとBは脈を取りましたが、同じ脈証でしたか。その前に腰痛患者はまったく同じ条件で来た、腰痛の原因は同じだったでしょうか。要するに数字で捕らえる事がすべてに出来ないのです。出来るのは、Aと言う鍼灸師が治した。Bと言う鍼灸師が、これだけの患者さんに満足していただける結果を出したと言うことです。
自分の技術で治療したら患者が治った。次の患者も治った。その次も治った。それで良いんです。西洋医学というのは、例えば1錠の商品名は違っていても、同じ成分の薬があります。それをこれこれの患者に投与したらこれだけ治癒した。均質なものを投与したら、患者の条件が異なっても、その薬の効果は数字で証明出来るのです。Aの鍼Bの鍼の治癒率は、鍼と言うものが効くのではなく、Aと言う鍼灸師の行う鍼が効くと言う、ごく個人的な治療成果なのです。ですからパーセントを出しても、共通認識の外に置かれるわけです。
もしそれを共通認識として、あるグループが共有しようと思うなら、先ほどから述べている古めかしい言葉ですが「修行」と言う作業、熟成される時間をもてないといけないと私は考えるのです。